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冷蔵庫のバナナが真っ黒になっていた。暗く、薄汚れた冷蔵庫の中で、私が置き忘れた黄色い果物は、甘ったるい匂いのみくゆらせて、そのおちゃらけた色からゆっくりと老い、いまや正真正銘のおばあちゃんのような糖の塊になっていた。それは、冷蔵庫から出すと汗をかいて、決して美味しそうには見えないほど、ぬらぬらと光っている。

今この瞬間、バナナが私を差し置いている。世界は、つまり正しさは、甘ったるい果物が少しばかりさらに甘ったるくなったからといって、それを捨てるのを許してはくれない。おとといのスーパーで売れ残って半額になっていた果物が、いまや私を脅かしている。そのとき私の視界には、黒いバナナ、銀色の冷蔵庫、くたびれたTシャツを着た私の横顔、大きな口を開けたビニール袋、さらさらと揺れる白いカーテンがあった。私が映画監督であればこのシーンを使うか迷うなと思うと同時に、外から救急車のサイレンが聞こえ、我に戻る。そこには、黒いバナナと、まるまるとした手指と、足首くらいまであるスウェットと、いびつな両足指と、茶色いフローリングが写っていた。外では、居酒屋の音に慣れてしまって、音量のチューニングが出来ていない男と、たぶんこちらは普段からチューニングなどしていないであろう女がいた。急な眠気に襲われ、黒いバナナをシンクにおいて私は再び眠る。午前1時。

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マクドナルドで、てりやきバーガーとチキンナゲットを買った。「何にしたの」と言われたので、てりやきバーガーとチキンナゲットにしたと言う。店員さんにナゲットのソースを聞かれて、選ぶのが億劫なので「選んでよ」と言ったら、楽しそうにマスタードソースを選んでいた。人生の中でナゲットのソースを選ぶというのは、数こそ少なくて、でもみんな当たり前のようにこなしていて、もしかしたら飛行機の乗る回数の方が多い人もいるだろうに、私たちはナゲットのソースなどどうでもいいと言わんばかりに、あてつけのようにソースを選ぶ。席について、なんでマスタードにしたの、と聞いたら「秘密」と言われたので、まあ理由など何にもないだろうなと思って慎重にソースのふたを開ける。少しグレーがかった黄色くて粘度の高い何かが、のっぺりと詰まっている。それを美味しそうに食べられると、それでも美味しそうに見える気がする。「美味しい?」と聞いたら、思ったよりおいしい、と言われた。あんなに楽しそうにソースを選んだ割には全然期待していなかったのだと思うと、そのドライさが面白くて少し笑い、チキンナゲットにかぶりつきながら少し笑って細まった目とが私をのぞき込んで、目が合う。これは幸せなのだろうと思うし、あの黒いバナナもほほえましく見ているはずである。これは正しいことだから。

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すりがらすの向こう側で、赤信号が青に変わった。逆ではワンクッションあるのに、許可を出されるときは一瞬で、まだ網膜には捕色残像が残っている。車の走りだす音がして目が覚めたような気がする。また静寂が訪れて、静かな寝息と換気扇の音だけが、この空間を震わせている。車が4台ほど通過したあと、すりがらすの向こう側で、青い光は一瞬黄色になり、そして赤へと変わった。部屋はまた赤くなった。壁はほんのり赤く、たぶん私の顔も赤みが買っているのだと思う。黒いバナナはすでに捨ててしまったが、さっきの一瞬の黄色、黄色につつまれたこの部屋が、私を非難した気がした。幸せというものが満ちているこの部屋で、1分に一度だけ私はその向こう側にあるものからの目線を感じる。そそくさとベッドに入り目を閉じると、そこには黒しかない。安心して眠れるな、と思う。瞳を覆うものがあれば、それは無色で、だから私たちは安心して目を閉じることができるのだと思う。その世界には幸せしかない。だから私はそのまま、眠りに落ちる。

 

卒業

遠くに行けたらいいな、と思うことがある。

遠く、というのは凡俗な日常の対極にあるものを指す漫然さを押し込めた単語であって、その程度しか望めない自分の対極にあるものへの願望である。

そして今、電車に乗っていて、カーブを曲がり終えたタイミングで5つ先くらいまでの車両まで見渡せた瞬間に、久々に同じことを思った。月曜日の昼はありえないほど電車が空いていて、電車の車両が曲がりくねったレールの上を走っていることを再確認させる。緩やかなカーブを終えてまっすぐに揃う電車を見て、まるで合わせ鏡の中に閉じ込められたような気分になり、それは何度も繰り返されるように錯覚するほどありきたりであった日々のようで、だから私はいまここで、いまここにあるすべての対極にあるものを望んでいる。

街全体が穏やかな陽気に包まれ、速さも濃さも煩さもすべてが夜の半分くらいしかない町のなかで、私は祝われるために移動している。この時期には同じ年代の男女が、祝われるためにすこしだけ背伸びをしたおめかしをして公共交通機関を利用する。桜の蕾がはち切れそうな時期に多くの人間の所属が変わる。悲喜の混ざったセレモニーに人々が移動していく。

駅を降りると一気にお祭り感、

ただ過ぎていく時に意味を持たせることができるのは素晴らしい。

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祝祭

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一通りのセレモニーが終わり帰路に着いた。目の前に広がる景色は、きっともう日常ではなくなるのだろうと思い、でも写真を撮るまででもないと思いながらのんびりと歩いていく。祭りが終わったあとみたいな特有の疲労感を全身に感じながら電車に揺られていると、煩雑とした日常からくる疲労感の中に高揚した後の疲労感が一人混ざっていて、そのコントラストに肩身が狭くなった。昼に通ったカーブをまた通って先の車両が見えた時、そこに騒ぎ疲れた人間などおらず、ただ移動する人間がいた。

懲り懲り

 

2025年のテーマ:「狂、真摯」

 

最近、小説や映画に頼らずに生きている。

それは自分の人生をフルで生きられているとも言えるし、他人の人生に没入する暇がないほど余白がないとも言える。あるいはその両方であるとも言える。今は、自分が、かつての自分が、暇があると小説を読んで映画を見ていたのも、自分の目の前にあるすべてから逃げていたのだとわかる。そして、そのようにロジックを組み立ててしまった以上、小説や映画を見にいく気が起きても、それを押さえつけるへんくつな理性の存在が頭の片隅に陣取っているのも分かっている。

自分にとって、他人の作った物語というのはセルフハンディキャッピングのようなものになっていた。自分の人生が立ち行かなくなりそうなときに、その世界、誰かの頭の中が何かしらで具現化された世界、の中で生きることで、私は何も考えなくてよく、創作者の意思決定に委ねられるだけで良くなる。大学受験の前でも、進振りの前でも、就活の前でも、幸も不幸も、希望に満ちた将来も失敗の後に待つ苦しさも、それは他人の作った物語には存在しない。その世界に私は実体としては存在せず、その幽霊ごっこのようなものが、軽薄な希死念慮と合わさり、ゆるやかに心地よかった。

そして、その創作物を消費したことを、そのセレクトに私自身の意思が入っているからと言って、私自身の創作であるかのように自らを勘違いさせ、落ち着きを得ていた。なにも生み出せずにいることを負い目に感じても、その現実を直視せず、誰かの創作にうつつを抜かすことでその現実から目を逸らす。クリエイティブをコンプレックスに感じる悲しい存在を傍目にみながら、自らもその亡霊に成り下がる。

結局のところ、自分にあるものも自分にないものも、その境界線を正しく認識し、それを獲得するべくもがかないといけない。他人とは所詮他人であり、だから他人にとっての他人も勿論他人であり、その境目をシビアに見つめていければいいな、と思う、長々しくてけったいな日本語だな。

 

淡緑

目の前に何か緑色のものが広がってそれが取れなくなってから、全てがおかしくなった気がしていた。その緑色はあからさまな緑というよりは淡い緑で、ちゃんと黄色と青色の絵の具を混ぜて作ったような純然な緑色だった。最初は補色残像みたいなものかと思って気にしていなかったけど、横断歩道の白い舗装が緑に染まりだしてから、これはいよいよだなと気づいた。

世界が緑色に淡く染まっていると、良いことと悪いことがそれぞれそこそこある。良いことは、例えばビルに囲まれても自然をどことなく感じられることで、悪いことは例えば、青信号が見づらいこと、みたいな感じである。夕焼けが世界全てを赤らめるように、自分の網膜は映ったものすべてを緑に染める。目が覚めても天井が薄ら緑だと、だんだん緑色の世界が夢までも侵食してきて、そうなるといよいよ気がおかしくなりそうになった。

最大の問題というのは、自分の中にある正しい色が消えていくことだった。筆を洗うバケツの水が緑色になり、脳内にあるパレットにあるすべての色がわずかに緑に染まったような感じで、それが本来の色のフィルターがかかっていると理解するのに時間を要した。真っ白なコピー用紙を見たときに、それを淡い緑色と認識する自分と真っ白と認識する自分がいて、それはまだ白色だとわかりやすいものの、他の色になったときにはもうどうしようもなくて、色が文字通りわからなくなりつつあった。そして色の見境を失っていくと、醜美の基準が少しずつ変わっていく気がした。金魚はくすんで見え、人の顔は全員どこか体調が優れない気がしたが、緑色の蒙古斑は肌に馴染んで見えた。肌色の中にある青くて緑色のものは、その世界の中ではすべてに馴染んでいた。

ある日、夢を見た。内容はまったく覚えていないが、自分の中の何かを失うことを恐れてずっと叫んでいたような気がした。ふと目が覚めると視界はすべて元通りで、天井は少し汚れた白色になっていた。この世界で私は浮いていて、緑色の蒙古斑は馴染めずにそこにあった。そこで私はまた、気が違いそうになる。

等高線

その2人の間にはなんの繋がりもなく、ただその時間にその場所に一緒にいて、その時間を共有していることだけがその共通点だった。とりとめのない居酒屋の端で、プリントの剥がれかけたジョッキを眺めて、ちょうど14秒がたった。氷がカランと音を立てたので前を見ると、相手もちょうど目を上げたところだった。その瞳、わずかに茶色が混じった黒目と左目だけ充血している白目、がその焦点をきゅっと合わせたとき、そこにわずかに濁った魂が見え、私の目の奥にもそれと同じくらい濁った魂があることを悟った。

堕落、という単語がある。z軸を高潔さとしたとき、この2人は同じ高さにあった。その2人はただその空間でただ同じ高さにいただけであり、その山べりを等高線に沿ってあるいていたら出会ったような、とりとめのない純粋な偶然の中の1つだった。そこに木が生えていて足元に小石があり、ふと夕立に遭うのと同じくこの2人はそこにいて、目の前の冷めた水餃子も、醤油の染みた大根のつまも、無造作におかれているおしぼりも、それはただ緩やかな偶然の帰結だった。

この2人は、その地図においてただ1本の等高線で繋がっており、それだけが2人を繋げていた。そしてその2人は、その斜面をくだり落ちている途中だった。相手の瞳は安易な自己献身で溢れていて、私の瞳は、その代わりに無邪気な退廃への憧れが詰まっていた。どちらもこの年代の人間によくある軽率な思考停止の結果であり、2人の差は思想をパクってきた青年期のカルチャーの違いのみから生じていた。

私も相手も、その薄っぺらさが同じで、同じだけ何かに憧れ、同じだけその現実に打ちのめされ、同じだけ悲しさを抱えていた。繁華街の雑居ビルのエレベーターの中で、液晶に表示される数字が1つずつ減っていくのを見ながら、この2人だけがこの座標、この時間に、等高線をちょうど同じ速度で同じだけ超えているんだと思った。これを堕落と呼ぶのならそれでいいな、と思った。

ちゃぷん、と

水面に反射する光でも十分に眩しいと気がつくのに23年と7ヶ月かかった。

その間に春は24回きて、秋は23回きた。23年7ヶ月というのは平均寿命の30%弱なので、私の体は3割くらい死体になっている。1日に3gずつ完璧な死体へと向かっていく私の体は、最近怠けているので輪郭に曲線が増えつつある。

その水面は、たださまざまな理由で振動しており、そこにあった光をただころころと反射していた。覗き込んでも私の瞳は映らず、肌色と黒色と服の色だけがゆらゆらしたモザイクの中を漂っている。水面と名がつくものであればそれは等しくその程度のものである。鎌倉の海でも、歩道の水溜りでも、家の狭い風呂でも、そこに水と空気の境目があるなら。水面を覗き込む私は画素数の低いスクリーンに押し込まれていて、そこでは私は自分の瞳を見ることなくそこに映る自分を認識する。

近くにあった小石をその川に投げ込むと、同心円状の波が私の輪郭をぼやけさせる。ちゃぷん、としたあとに数回私の輪郭がびよん、と震えそこに光が差し込んだ。光は文字通り乱反射を重ね、私の目に眩いかぎりの光が届く。そして、