雨(王子駅)

大切なものが指の間から滑り落ちていく感覚がある。それはまるまると太って、大して満足に酷使したこともないような母指球を通って全ての指に渡り、指先まで伝った後に生ぬるい空気へと還元されていった。深爪だから、手のひらをつたっていった点のようなものは指の腹からその存在感をなくす。4月にときどきある湿っぽい空気はどこか自分の皮膚に合わず、空気と皮膚の間にラップのような何かが巻かれている感覚になる。梅雨というわけでもなく、風情がない中でただ不快感のみ残る季節に、自分はトルティーヤのようにぐるぐる巻きにされている。深爪は深くなるばかりでピンクの占める面積比は単調に少なくなっていく。

幾度となく効いた機械音声の後、ホームドアの向こうでは、半透明な私とそこにぶつかっていく電車がある。電車は左からやってきたので、私は左からはねられることになる。ホームドアの中の私にとっては右側。うしろに並んでいるサラリーマンの革靴は汚れていて、スーツには深い皺が刻まれている。薄汚れたガラス(あるいはプラスチック)の向こうは、誰も気にしていなくて誰も気にすべきではないものを写している。

///

やっぱりこの世界は人間の脳みそを超えた複雑系のめっちゃでっかいバージョンで、未来を予測することなどできやしないのに、それでもその不確実性に立ち向かって敗れていくのが人間の本質だと思います、不確実性にたちむかうために、ある人は論理を信仰し、ある人は直感に身を任せ、ある人はそこに神を見出していると思います

n秒後に何をしているべきかという決断にはすべて {従った/従わなかった} 場合のトレードオフがあり、そのトレードオフの狭間で、各々が身につけたなけなしの武器を片手に、運命(という幻想)に流されていくのが人間の本質です

だから、なし得なかった何かに思いを馳せていくこと、なにかを為した結果として望んでいない結果に落ち着いているもの、そのトレードオフが大きければ大きいほど、結果の善悪こそあれど、それは美しいと信じます

点があってそれに意味を見出して線にするのは確かに人間の素晴らしさの1つではあるけれども、その過程で失われていく情報にこそ意味があるのだと思います

耽り、溺れる

快楽に飽きてからが人生の始まりだと思う。それは例えば、ハイブラのロゴに興味を示さないことであり、目の前の人間の瞳に映った自分を他人なしで認識することである。快楽に飽きることが難しいから、今日もルミネエストは若者で繁盛し、スタバでは花見だんごフラペチーノ®が飛ぶように売れていく。飽きることのない快楽が金にかわり、そしてその金は誰かに快楽を与える。

まだ快楽に飽きていないということは、まだそれを経験しつくしていないということである。そしてそれは即ち、苦しむことすらまともにできていないということである。感情の針はただ0近辺をちらちらと振れて、どこかで取り入れたフィクションの劣化コピーの感情を頼りに、日常の出来事をグルーピングしているだけである。新鮮に世界を楽しめているときは、ただその目新しさに心が躍っているだけで、ある程度退屈になってきたときに、そこでようやく感情の針の乱雑性が上がっていく。ラピュタの再放送みたいに、退屈さは必ずしも苦しみにならない、でも何かを倦まないと感情の針は大きく触れてくれない。

快楽に飽きて、そこから人生が始まるのであれば、快楽に耽り、今の人生を一度終わらせにかかることが必要になる。よくある希死念慮とは異なり、それは希望に満ちたものになるはずである。赤ん坊が見方によってはただ死に向かう存在であるように、刹那的な快感を求める自意識は快楽に飽きようとする存在になる。それはきっと、大きな流れのひとつなのであって、その流れの先には新しい人生の始まりがあるはずである。

///

人間にとっての快楽を考えてみると、それはせいぜい両手で数えられるくらいのパターンしかない。その日は少し長めにパソコンに向き合ったので、終電間近で帰ることになった。大学から帰る電車はやけにみんな気分が高まっていて、休日の映画館くらいの喧騒になっていた。目の前には、新年会を終えたのであろうサラリーマンが、足元がおぼつかないほど酔っ払っている。これは多分、パターン、それも実現可能性が最も高く、その分この種の快楽に対する評論家が多そうなパターン、の1つの快楽に耽った結果である。彼は、快楽に飽きようとして酒を煽っていたわけではない。ただ、その快楽を求める彼の思考のみによって、べろんべろんになっている。むかついたので、帰りにコンビニで強めの酒を少し多めに買った。

自分は快楽に飽きようとして、その酒を今飲んでいる。少しすると頭が痛くなり、気分が優れなくなる。そして、明日二日酔いになるのかどうかの心配をする。これは全てどこかでみたことがあり、誰かが言うのを聞いたことがある話と全く同じである。この身体的な苦しみは、それ自体はただ素晴らしく苦しいのに、感情の針はほぼ0から動いていない。そしてしばらくすると、昔の思い出、それも主に人間関係の喪失に関わることを思い出す。そしてその非力感にやられ、鬱々とした気分になる。この精神的な苦しみは、それ自体もただ素晴らしく苦しいのに、感情の針はほぼ0から動いていない。誰かが言っていた話であり、誰かが書き記した話であり、それを誰かが物語として消費していた程度の話である。

///

自分はまだ、その自意識の奥底では快楽に飽きようとしていないのかもしれない。楽しいことを少し抽象化して俯瞰した結果、それで分かった気になっているだけなのだと分かる。だから、快楽に飽きることもなく、ただ認識できるドーパミンを追い続けていくのだろうと思う。これでは、この人生を終わらせることができないなと思う。私にしか体験し得ない何か、というありきたりな幻想を追い求めているわけではなく、ただ、感情の針を極度に振り切らなくてはいけないと考えているだけである。そして、その方向は正よりも負の方が、再現性が高そうであるだけである。

 

旋回(仮)

人間の脳は愚かなもので、五感でその存在を感じた世界をそのままの情報量で残しておくことができない。私もそこに属するものだから、情報量を日々落としてそれを記憶としている。

情報量を落とすと、文章と適当な五感の断片的情報でしか過去を保持できなくなってしまう。その結果、できあいの文章を固有名詞を少し変える程度のわずかなカスタマイズをして、それを「自分の記憶」としておく。私はドラマを見て、映画を見て、小説を読んで、その登場人物の目線から世界を捉えた気になり、その人物と自分の境目を失い、それを過去の自分として混同してしまう。仕方のないことである。逆にいうと、ストーリーを扱う創作物は、脳内で足りない情報量を補完されてはじめて、相手の世界の一部となる。その意味で、多次元空間をより「復元しやすい」低次元空間に落とし込めているのが良い芸術であり、その軸の取り方こそがセンスになる。

 

///

 

影がハッキリと見える日だった。20分に1回くらい雲が出てきて冷えたが、それ以外の19分30秒は日が差しているような日だった。薄い影法師がゆらめきあう余白すら与えないほどの圧倒的な光源の中で、私は寒さと戦っていた。海辺の街によくある海風と、頑固に冷たい地面からの煽りを受けて、身体の末端が悲鳴を上げていた。黒いハイネックのセーターを着ていたので、太陽が出ている時は背中がぽかぽかとしている。ただ、影に入ってしまいそこから抜けることのできない足先は、背中からエネルギーを奪うだけ奪ってみすみすと地面にのがしている。

少し車を運転したかったから、前日から予約して朝から車を借りた。よくある普通の車(たしかトヨタのアクア)で、中も綺麗だった。ハイブリッド車に独特のエンジン音と静かな発進音のあと、女性の機械音声が鳴り響いた。独特の静寂の中で、2,3分おきに機械的な音声が聞こえる。彼女は、その道が道なりにどれくらい続いていて、あとどれくらいで曲がり角なのかを伝える。ブレーキのかかり具合に気を回しながら、無心で車を運転した。最初は行けるところまでいってやろうと思っていたのに、1時間も下道をのんびり走っていたら、アクセルとブレーキをただゆっくりと押したり引いたりするのに飽きてしまった。そのまま車を1時間ちょっと走らせて、たまたまあった公園に停車した。最初の目的に目を(意識的に)瞑り、その偶然性に感動を装った。たぶんこの積み重ねで人生が出来て、私はそこに意味を見出す。

家から持ってきたレジャーシートを広げた。

///

鳥。笑う男。子供、学校の声。申し訳なさ程度のアート。

感覚

背中に体重を乗せると、椅子の背中にかけておいたズボンがかちゃかちゃと音を立てた。キーボードに手を乗せようとして左前に体重を移すと、着ていたフリースの擦れる乾いた音がした後、何かが軋む音が聞こえた。窓ガラスには小雨の当たる音がして、時々車がエンジンをふかす音もする。机の上は相変わらず散らかっているが、特にそれを綺麗にしようとする心意気もない。目の前の本棚には今敏のパプリカの絵コンテ集と自分の苗字の判子が加わった。そこにはまだ、文庫ならまだ2冊くらい入れられる余地がある。

机の上でくしゃくしゃになったレシートは、この1ヶ月以内に渋谷の小洒落た居酒屋で8650円分の飲食をしたことを示している。広げてみても、ところどころ掠れたり黒く変色していて、特にそれ以上の情報はなかった。誰とどんな話をしたかも思い出せず、Googleカレンダーと半ばゴミになっているレシートのみが、その予定を確実なものして思い出させる。スマホを見返してみても、美味しそうなニョッキとピザの写真しか出てこない。記憶のどこかにニョッキの味とその場所についての記憶があるはずなのに、時系列にぽっかりと穴が空いたように思い出せない。

ふと、このレシートみたいなものを積み重ねて、それが自分の人生になってしまっていると思った。自分は少なくともそうなっていると思うし、少しだけ生きることに真面目な人はそのレシートをまとめて家計簿をつけているだけだとも思う。ふと上に目をやると、レシートを雑多にまとめた緑色の封筒から、鎌倉の飲食店のレシートが顔を出していた。しかし、しばらく考えてみてもその当時のことは思い出せず、そしてそのレシートが印刷された当時はそのレシートが思い出の一欠片になっていたのだろうことだけは分かり、その繰り返しの先に今が生まれてしまっていると思った。レシートはその出来事だけを伝えていて、私がその料理をどう感じ、誰と何の話をしてどういう感情を抱き、そしてその席を共にした相手がどのように感じたかなど、そんなことは何も残してくれない。ただ、事実、しかも支払いを完了したという事実だけが、小さな感熱紙に残る。

少し前までは、過去の感覚を思い出すには、少しだけでもフックがあれば良いと思っていた。それは文章であり、写真であり、小さなキーホルダーであり、時々レシートだった。しかし、何かをおざなりにしていたら、小さなフックで持ち上げられないほど、自分の感覚は重くずんぐりとしたものになっていた。レシート1枚ですべてが事足りる生き方ができなくなり、それでもそのような生き方ができればと淡い期待を抱きつつ、筆箱につけるキーホルダーは増えていき、財布の中のレシートは厚みが増していく。

椅子をぎしぎし言わせながら後ろの窓を振り返ると、まだ小雨が降っていた。レシートを数枚捨てたところで、机の上は相変わらず散らかっている。横向きに置かれていた判子を立ててみると、乱雑な本棚にまとまりが出た気がした。しばらくは立てておこうと思った。でも、何かの拍子でその判子が倒れても、たぶんそのときにはもう判子の置き方なんか気にしていないのだろうと思う。

///

ポリフォニー(polyphony)

日々、鬱鬱としている。いつか躁鬱の躁が来ることを期待しているのに、そんなものはなく、たまの気分がいい日に8000円くらいの買い物をするだけである。部屋には、一目惚れした意匠とamazonの空箱のみが同じペースで増えていく。平らな面を残そうとするも虚しく、机の使用可能な面積は減っていく。それでも時々片付けをして、その上に平らな面が新たに作られていく。脱皮のように。

地下鉄の駅の端に自動販売機があることに気がついた。木曜日の午後2時のことだった。その自販機は、誰も来ないホームの端で、1日に100回以上吹く突発的な風を浴びながら誰かが買いに来るのを待っていた。誰もホームの端には来ないから、もちろん誰もその自販機に気が付かずに改札から出終える。そしてその自販機には時々(多分月に2回くらい)、それを生業とする人が在庫を点検しに来る。夏にはスポーツドリンクが増えて、冬には暖かい飲み物が増える。そうして彼らは表面の錆を増やしていく。

電車とホームの隙間、点字ブロックの少し先に隙間がある。誰もその隙間など見ずに電車を乗り降りしていく。乗客の感情、例えばこれから目的地に向かう高揚感や電車に間に合った安堵感、目的を終えて家に向かう中での疲労感、からすると、10cmほどの隙間など目を向ける価値もない。5,6歳くらいの子供だけが、その隙間をまじまじと見つめながらその危険性に対峙する。そして大股でその隙間を越えていく。その齢を一度超えてしまうと、誰ひとり見向きもしない。そこにはただ、誰の意識も邪魔しない空間的な欠落があるだけである。

ホストの宣伝トラックが、午後4時の甲州街道を無音で走っていた。幡ヶ谷駅から歩いて2分くらいの高架下の広い道路だった。歩道では、買い物帰り(または行き)の壮年期の女性が5m間隔で行き交っていた。みんなトイレットペーパーを持っていたから、多分今日はどこかのスーパーかドラッグストアがトイレットペーパーの特売をしていたのだろう。みんなの持っているトイレットペーパーには、その位置に差こそあれど、赤いセロハンテープが貼られていた。トラックに大きく印刷された金髪の中性的な男の家にも、セロハンテープが貼られたトイレットペーパーがあるはずである。でも、その色は多分赤ではない。

1日の中で、水平より下に顔を傾けている時間が大半を占めている。世界は水平より上を向いている人間に向けて設計されている。下を見て、スマホを見て、掠れた白線とガムの跡しかない地面を見て、塗装が剥げ錆に溢れた何かの基礎を見ている。煌びやかな広告も、捻りの張り巡らされた建築も、着飾った人間も、上を見ている人しか享受できない。人生が終わるタイミングで、その引き際を自分で決める人は、その瞬間下を向いている。上を見ながら死ぬことなどできない。地獄は下にあって天国は上にあり、必然的に死を選ぶ人は下を向いて死に、運命に身を任せて生涯を閉じる人は上を向いて死ぬ。海の下に都などないし、幸せは雲の上にはないはずである。

見下ろした視線の先に意味が与えられることなどない。そこには、水平より上の世界で役目を終えたものが、ただ重力に屈服した姿があるのみである。

偏愛に普遍性を語れるか

2024年のテーマは「偏愛」とします。

結局のところ、私は何を語ることができて、私は何を語らないかが大切であると思う。

「真剣に、命懸けで遊べ」と岡本太郎が言ってました。だから、語れるように、真剣に、意識的に、何かに愛を傾けたいと思います。

ここで真剣とは、身体的にも精神的にもコストを支払うことが必要条件であると思う。つまり時間を捧げて拘束を避けず、そのことを考え続けることが求められている。だからもう少し負荷をかけて生きたい。自分の領域に何かが入ってくるのを嫌がらず、そして自分自身も誰かの領域に入っていくことを恐れてはいけないと思います。

何かを作るという点においては、①真っ当なフィードバック(批評)を受けること、②自分の中にある何かに向き合ってそれを少しでも書き起こすこと、の2点を行います。

(以上、決意表明じみた決意表明)

曝ける(さらける)

喉が渇いていたことを覚えている。喉が渇いていない時があったことも、同じように覚えている。気がついたら特に酒を飲んだわけでもないのに、吐くほど水を飲んでいた。食道の水位が上がっていく感覚のあと、液体が体から溢れる。鼻の粘液に薄い塩酸が刺さり、咳込んだ。刺激臭の中にハトムギ茶の香りを確かめ、爽健美茶を飲んだことを思い出す。カフェインが苦手だからと安い緑茶を避け、40円高爽健美茶を買ったことも。こんな状況で。

23歳になった。奇数かつ4年ぶりの素数。長い22歳だった。今思い返しても長かったと思うし、長いということはただ意味のある出来事がたくさん起こっただけだったとも思う。

私は過去に逃げ込むことで自分の苦しみから逃れようとしている。そして私は、多くの人は未来に逃げ込むことで自分の苦しみから逃れることを知っている。人は未来に逃げ込むとき、時間軸と交わる何かを願う。その存在が自分の苦しみを断ち切ることを信じて。私が過去に逃げ込むとき、ただ私の記憶のみが自分の苦しみと繋がり、逃れるきっかけを与えるはずである。しかし自分の苦しみは断ち切られず、記憶との癒着を強めるばかりである。

アスファルトには、誰かの吐き捨てたガムとタイヤ痕があり、黄色の電灯が中腰の人間の上半身の影を映す。そしてその上から、かつて爽健美茶と私の消化液であったものが覆いかぶさっている。この液体はもう、ペットボトルの中にも胃の中にも戻らない。そしてこの液体は5分前も今も、そしてこれからも、私の渇きを癒さない。渇きはもう癒えない。ふと目を上げると自動販売機が煌々と輝いていた。ディスプレイの中で、プラスチック製の清涼飲料水が光っている。それは幻だったのかもしれないが、確かめるまでもなく踵を返して、白線の剥げたアスファルトを踏み締めた。