耽り、溺れる

快楽に飽きてからが人生の始まりだと思う。それは例えば、ハイブラのロゴに興味を示さないことであり、目の前の人間の瞳に映った自分を他人なしで認識することである。快楽に飽きることが難しいから、今日もルミネエストは若者で繁盛し、スタバでは花見だんごフラペチーノ®が飛ぶように売れていく。飽きることのない快楽が金にかわり、そしてその金は誰かに快楽を与える。

まだ快楽に飽きていないということは、まだそれを経験しつくしていないということである。そしてそれは即ち、苦しむことすらまともにできていないということである。感情の針はただ0近辺をちらちらと振れて、どこかで取り入れたフィクションの劣化コピーの感情を頼りに、日常の出来事をグルーピングしているだけである。新鮮に世界を楽しめているときは、ただその目新しさに心が躍っているだけで、ある程度退屈になってきたときに、そこでようやく感情の針の乱雑性が上がっていく。ラピュタの再放送みたいに、退屈さは必ずしも苦しみにならない、でも何かを倦まないと感情の針は大きく触れてくれない。

快楽に飽きて、そこから人生が始まるのであれば、快楽に耽り、今の人生を一度終わらせにかかることが必要になる。よくある希死念慮とは異なり、それは希望に満ちたものになるはずである。赤ん坊が見方によってはただ死に向かう存在であるように、刹那的な快感を求める自意識は快楽に飽きようとする存在になる。それはきっと、大きな流れのひとつなのであって、その流れの先には新しい人生の始まりがあるはずである。

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人間にとっての快楽を考えてみると、それはせいぜい両手で数えられるくらいのパターンしかない。その日は少し長めにパソコンに向き合ったので、終電間近で帰ることになった。大学から帰る電車はやけにみんな気分が高まっていて、休日の映画館くらいの喧騒になっていた。目の前には、新年会を終えたのであろうサラリーマンが、足元がおぼつかないほど酔っ払っている。これは多分、パターン、それも実現可能性が最も高く、その分この種の快楽に対する評論家が多そうなパターン、の1つの快楽に耽った結果である。彼は、快楽に飽きようとして酒を煽っていたわけではない。ただ、その快楽を求める彼の思考のみによって、べろんべろんになっている。むかついたので、帰りにコンビニで強めの酒を少し多めに買った。

自分は快楽に飽きようとして、その酒を今飲んでいる。少しすると頭が痛くなり、気分が優れなくなる。そして、明日二日酔いになるのかどうかの心配をする。これは全てどこかでみたことがあり、誰かが言うのを聞いたことがある話と全く同じである。この身体的な苦しみは、それ自体はただ素晴らしく苦しいのに、感情の針はほぼ0から動いていない。そしてしばらくすると、昔の思い出、それも主に人間関係の喪失に関わることを思い出す。そしてその非力感にやられ、鬱々とした気分になる。この精神的な苦しみは、それ自体もただ素晴らしく苦しいのに、感情の針はほぼ0から動いていない。誰かが言っていた話であり、誰かが書き記した話であり、それを誰かが物語として消費していた程度の話である。

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自分はまだ、その自意識の奥底では快楽に飽きようとしていないのかもしれない。楽しいことを少し抽象化して俯瞰した結果、それで分かった気になっているだけなのだと分かる。だから、快楽に飽きることもなく、ただ認識できるドーパミンを追い続けていくのだろうと思う。これでは、この人生を終わらせることができないなと思う。私にしか体験し得ない何か、というありきたりな幻想を追い求めているわけではなく、ただ、感情の針を極度に振り切らなくてはいけないと考えているだけである。そして、その方向は正よりも負の方が、再現性が高そうであるだけである。