ポリフォニー(polyphony)

日々、鬱鬱としている。いつか躁鬱の躁が来ることを期待しているのに、そんなものはなく、たまの気分がいい日に8000円くらいの買い物をするだけである。部屋には、一目惚れした意匠とamazonの空箱のみが同じペースで増えていく。平らな面を残そうとするも虚しく、机の使用可能な面積は減っていく。それでも時々片付けをして、その上に平らな面が新たに作られていく。脱皮のように。

地下鉄の駅の端に自動販売機があることに気がついた。木曜日の午後2時のことだった。その自販機は、誰も来ないホームの端で、1日に100回以上吹く突発的な風を浴びながら誰かが買いに来るのを待っていた。誰もホームの端には来ないから、もちろん誰もその自販機に気が付かずに改札から出終える。そしてその自販機には時々(多分月に2回くらい)、それを生業とする人が在庫を点検しに来る。夏にはスポーツドリンクが増えて、冬には暖かい飲み物が増える。そうして彼らは表面の錆を増やしていく。

電車とホームの隙間、点字ブロックの少し先に隙間がある。誰もその隙間など見ずに電車を乗り降りしていく。乗客の感情、例えばこれから目的地に向かう高揚感や電車に間に合った安堵感、目的を終えて家に向かう中での疲労感、からすると、10cmほどの隙間など目を向ける価値もない。5,6歳くらいの子供だけが、その隙間をまじまじと見つめながらその危険性に対峙する。そして大股でその隙間を越えていく。その齢を一度超えてしまうと、誰ひとり見向きもしない。そこにはただ、誰の意識も邪魔しない空間的な欠落があるだけである。

ホストの宣伝トラックが、午後4時の甲州街道を無音で走っていた。幡ヶ谷駅から歩いて2分くらいの高架下の広い道路だった。歩道では、買い物帰り(または行き)の壮年期の女性が5m間隔で行き交っていた。みんなトイレットペーパーを持っていたから、多分今日はどこかのスーパーかドラッグストアがトイレットペーパーの特売をしていたのだろう。みんなの持っているトイレットペーパーには、その位置に差こそあれど、赤いセロハンテープが貼られていた。トラックに大きく印刷された金髪の中性的な男の家にも、セロハンテープが貼られたトイレットペーパーがあるはずである。でも、その色は多分赤ではない。

1日の中で、水平より下に顔を傾けている時間が大半を占めている。世界は水平より上を向いている人間に向けて設計されている。下を見て、スマホを見て、掠れた白線とガムの跡しかない地面を見て、塗装が剥げ錆に溢れた何かの基礎を見ている。煌びやかな広告も、捻りの張り巡らされた建築も、着飾った人間も、上を見ている人しか享受できない。人生が終わるタイミングで、その引き際を自分で決める人は、その瞬間下を向いている。上を見ながら死ぬことなどできない。地獄は下にあって天国は上にあり、必然的に死を選ぶ人は下を向いて死に、運命に身を任せて生涯を閉じる人は上を向いて死ぬ。海の下に都などないし、幸せは雲の上にはないはずである。

見下ろした視線の先に意味が与えられることなどない。そこには、水平より上の世界で役目を終えたものが、ただ重力に屈服した姿があるのみである。