今日の新宿には、ふくらはぎが細い女とふくらはぎが太い男のペアか、ふくらはぎが太い女とふくらはぎが細い男のペアしかいなかった。街全体で平すと、欲望、それも睡眠:食:性:承認=0.5:1:4:4.5 くらいの割合の欲望、が渦巻いていた。女は、ふくらはぎが細くても太くてもそれを見せびらかしていたし、男は、ふくらはぎが細くても太くてもそれを隠していた。

新宿に来るたびに、16:00くらいの新宿東口の広場が好きだなと思う。人は歩くときに、目的をもって歩く。この時間の新宿、それも東口の広場では、これから出勤する人間(目的アリ、制限時間アリ)と夜ご飯を家で食べるために帰路につく人間(目的ナシ、制限時間ナシ)が交差する。この2つの人間の集団が存在する系は異なっているので、衝突はおこらないし、限りなく小さい摩擦係数でお互いのエネルギーは保存される。毎日、異なる系に住む意思のある物体が、それぞれの系の中でスムーズに生きている。

それでも、自分の住む系から滑り落ちてしまう(または駆け上がっていく)人間がいる。彼/彼女は滑りたくて落ちていくのか、細い梯子を人生を懸けてあがっていくのか、まぁ上下なんか観測者で変わるからそこはどうでもよくて、とりあえず意思みたいなものがある場合とない場合があると思う。滑り台は、傾斜が15度とかだと楽しいけれど、40度とかになると一気に怖くなる。坂でもゲレンデでも、傾斜が急な場所は経験者にしか勝ち目がない。人生でも、斜面が急な系に生きられる人間がいる。その才能に憧れて、滑り落ちてもどこかで凹凸にひっかかるだろうと高を括って、滑り落ちていく人がいる。

新宿にいた片方の集団は、この才能がある人間、またはあることに賭けている人間で構成されていた。彼らは、急な斜面に放り出されている。放物線を描いて沈んでいく人と放物線を少しでも描きたい人が、この系にいる。

私はそのような人間を間近で見たことはないし、今後も少し離れた安全圏から、時々緩やかに描かれる幾多の放物線を見に来ることだろう。靖国通りを折れ目として向こう側に傾いている新宿という街に、少し冷やかしに来てチップを落としに来る。明日もきっと、ふくらはぎの凹凸がぴったりとはまった男女がこの坂に身をまかせに来る。人生は見せ物ではないが、見せ物として他人の人生を消費することは娯楽のひとつではある。

 

また2週間後とかに見に来ようと思った。念の為、坂に足を踏み入れるのを止めてくれる人間と一緒に。