どういう風に生きていて、どういう風に歩いているかを、思い出せなくなってしまった。思い出せないということは、最後に生きていたのは、多分3年くらい前だったのかもしれない。3年の間に色々なことがあった。私は私なりに苦しんだ。もがいている気になっていたら、もう何もなかった。目玉焼きからひよこが生まれないように、私の脳を構成するタンパク質は、時間軸を一方向にしか進めない。
ここらが潮時だと思う。どこまでいっても多分この景色であることは想像がつく。多分あとは精神のエネルギーが満ち足りた時に、理性を超えた一歩を踏み出せるかどうかの違いでしかない。
小説は人を救えると本気で思っていた。人の絶望を救えるものにしか意味がないからと、多くのものを無視してきた。悲しいことに、蓋を開けてみたら、すべて同じくらい意味があって、すべて同じくらい無意味だった。つまり、私の崇高な理想は、ただ複数のサイコロを振った結果に意味を付けただけの、しょうもない解釈の1つだった。
大学に入ってから、鏡に映る自分の黒目を見ることができなくなった。高校生の頃、どうしようもない時に鏡の自分を罵っていたら、それが癖になり、それが何かを背けてしまった。黒目の少し外側にある白目の中は赤くて、そこからは時々涙が出る。
ただ報酬系と能力が見合わなかったという話であり、私は、私自身の、ドーパミンを求める本能に殺される。人生とは、例えば、本能と理性のどちらがはやく決着をつけられるか、というだけの話なのかもしれないと思った。