最新;当時

どういう風に生きていて、どういう風に歩いているかを、思い出せなくなってしまった。思い出せないということは、最後に生きていたのは、多分3年くらい前だったのかもしれない。3年の間に色々なことがあった。私は私なりに苦しんだ。もがいている気になっていたら、もう何もなかった。目玉焼きからひよこが生まれないように、私の脳を構成するタンパク質は、時間軸を一方向にしか進めない。

ここらが潮時だと思う。どこまでいっても多分この景色であることは想像がつく。多分あとは精神のエネルギーが満ち足りた時に、理性を超えた一歩を踏み出せるかどうかの違いでしかない。

小説は人を救えると本気で思っていた。人の絶望を救えるものにしか意味がないからと、多くのものを無視してきた。悲しいことに、蓋を開けてみたら、すべて同じくらい意味があって、すべて同じくらい無意味だった。つまり、私の崇高な理想は、ただ複数のサイコロを振った結果に意味を付けただけの、しょうもない解釈の1つだった。

大学に入ってから、鏡に映る自分の黒目を見ることができなくなった。高校生の頃、どうしようもない時に鏡の自分を罵っていたら、それが癖になり、それが何かを背けてしまった。黒目の少し外側にある白目の中は赤くて、そこからは時々涙が出る。

ただ報酬系と能力が見合わなかったという話であり、私は、私自身の、ドーパミンを求める本能に殺される。人生とは、例えば、本能と理性のどちらがはやく決着をつけられるか、というだけの話なのかもしれないと思った。

今日の新宿には、ふくらはぎが細い女とふくらはぎが太い男のペアか、ふくらはぎが太い女とふくらはぎが細い男のペアしかいなかった。街全体で平すと、欲望、それも睡眠:食:性:承認=0.5:1:4:4.5 くらいの割合の欲望、が渦巻いていた。女は、ふくらはぎが細くても太くてもそれを見せびらかしていたし、男は、ふくらはぎが細くても太くてもそれを隠していた。

新宿に来るたびに、16:00くらいの新宿東口の広場が好きだなと思う。人は歩くときに、目的をもって歩く。この時間の新宿、それも東口の広場では、これから出勤する人間(目的アリ、制限時間アリ)と夜ご飯を家で食べるために帰路につく人間(目的ナシ、制限時間ナシ)が交差する。この2つの人間の集団が存在する系は異なっているので、衝突はおこらないし、限りなく小さい摩擦係数でお互いのエネルギーは保存される。毎日、異なる系に住む意思のある物体が、それぞれの系の中でスムーズに生きている。

それでも、自分の住む系から滑り落ちてしまう(または駆け上がっていく)人間がいる。彼/彼女は滑りたくて落ちていくのか、細い梯子を人生を懸けてあがっていくのか、まぁ上下なんか観測者で変わるからそこはどうでもよくて、とりあえず意思みたいなものがある場合とない場合があると思う。滑り台は、傾斜が15度とかだと楽しいけれど、40度とかになると一気に怖くなる。坂でもゲレンデでも、傾斜が急な場所は経験者にしか勝ち目がない。人生でも、斜面が急な系に生きられる人間がいる。その才能に憧れて、滑り落ちてもどこかで凹凸にひっかかるだろうと高を括って、滑り落ちていく人がいる。

新宿にいた片方の集団は、この才能がある人間、またはあることに賭けている人間で構成されていた。彼らは、急な斜面に放り出されている。放物線を描いて沈んでいく人と放物線を少しでも描きたい人が、この系にいる。

私はそのような人間を間近で見たことはないし、今後も少し離れた安全圏から、時々緩やかに描かれる幾多の放物線を見に来ることだろう。靖国通りを折れ目として向こう側に傾いている新宿という街に、少し冷やかしに来てチップを落としに来る。明日もきっと、ふくらはぎの凹凸がぴったりとはまった男女がこの坂に身をまかせに来る。人生は見せ物ではないが、見せ物として他人の人生を消費することは娯楽のひとつではある。

 

また2週間後とかに見に来ようと思った。念の為、坂に足を踏み入れるのを止めてくれる人間と一緒に。

 

通知というものが気に食わなくて、すぐに全てチェックしてしまう人間になった。昔は未読を溜めている方がなんかかっこいい気がしていたけど、返信に時間をかける人間より即レスする人間の方がコミュニケーションにコストをかけている気がして、徐々に即レスする人間になった。公式アカウントでも、友人でも、アプリの右上の赤い数字を残しておくと気が済まない。暇とかではなく、そういう思考回路になっただけの話と思っている。

ぼんやりとインスタを見ていると、最近連絡をとるようになった大学の友人からのラインが来た。

「今度先輩と飲むけどお前も来ない?」「いく、いつ?」「来週火曜、19時、渋谷」「了解」

これだけで良かった。ものの数秒でラインの緑色のアイコンの右上にある赤い数字が無くなった。ようやく安心する。私を縛るものが1つなくなり、私が必要とされる場が1つ増え、私は来週火曜まで生きなくてはいけなくなり、だから今日は安心して眠れる。そろそろ夜の1時になりそうだったので、これに満足して寝ることにした。スマホを置くためにベッドから出たら、めくれあがったカーペットの下のフローリングが冷たかった。もう少しで11月になることを思い出した。

 

朝起きて支度して11時頃に家を出た。電車は空いていて、いろいろな年代の人がいた。みんな揃いも揃ってスマホばっかり見ていて、その様子をみてしまうとあまのじゃくな性分が邪魔をして、スマホをポケットにしまった。電車には、同じくらいの歳の人も、年寄りも、小綺麗な格好をした人も、パジャマに毛が生えたような服装の人もいた。彼らの中には、通知が溜まることが気持ちよくてたまらない人間も、仕事の連絡だけはすぐに返そうと努める人間も、全てすぐに返さないと気が済まない人間もいるはずである。まだ人間は連絡への感度で分類ができると思うと、少し安心する。そして自分は、その分類の中で没個性的に存在できる。ラベリングされた1つの集団として。即レスしちゃうけど別に暇ではないと思っている人間として。

大学の最寄駅は、自分のところ以外にも複数の大学があり、昼という時間も相まって騒がしかった。交差点では、隣の専門学校の学生が騒いでいた。普通の話、つまり単位と授業と課題とバイトの話、をしていた。特に目新しい点はなく、googleで検索結果の1番上にでてくるまとめサイトみたいな情報量の話が聞こえる。風に揺れる彼らのフレアパンツの裾を鬱陶しく思いながらも、外殻としての服装とその中身のアンバランスさが少しだけ滑稽で、ふと、パイナップルは外側の派手さと果実の美味しさのバランスが整っているな、と思った。外殻がないけど少しは身がある食べ物と、外殻は立派で身がしょぼい食べ物だと、人はどちらを選ぶのだろうか。まぁ、食べ物なら前者だろう。問題なのはそれが人間だった時で、外殻がないけど少しは中身がある人間と、外殻は立派で身がしょぼい人間だと、どちらが人間として重宝されるのだろうか。そんなことを考えていると信号が青になり、点字ブロック前に固まっていた集団がほどけていった。横断歩道はいつも通り縞々で、少し掠れていたが、誰もそんなことを気にせずに歩いていった。

 

合わせ鏡的なもの、たぶん

深夜、25時、何も音がないから、イヤホンをして心臓の音が聞こえる状態にならないと気が落ち着かない。パソコンにつけていた有線イヤホンを外して、スマホ用のワイヤレスイヤホンを装着した。ワイヤレスイヤホンではなぜか心臓の音が全然きこえず、なにか音を流そうとYoutubeを漁ったら、アイドルとお笑いのコンテンツしか表示されず、画面を裏返して机の上に放っておいた。そしたら少しして、女性の機械音声でバッテリーが切れたことを伝えられた。仕方なく、また微かな静寂の世界に戻った。さっきよりも少しだけ鼓動が聞こえる。

昨日の日経新聞に載っていた金原ひとみの短編のエッセイが良くて、紙媒体で残すために新聞を買った。よくある恋愛の文章だった。まさに彼女らの生業。本当によくありそうな、薄い喪失とその回想の話。

これは彼女自身の話かもしれないしそうではないかもしれない。でも、大事なのはそこではなくて、あの文章が詩的に美しいことである。別にそれ以外のことはどうでもいい。彼氏の幼さとか、彼女の顔がいいと成り立たない(つまり金原ひとみがモテていないと成立しない)とか、メタファーがありきたりとか、そんなことはどうでもいい。人間とかモチーフなんかどうでも良くて、ただ表現がいいよね、という話。それだけ。

少し前まで関わりのあった、ある人間がいた。自己愛が強く、短期的な(薄い)快楽にほいほいと尻尾をふり、自分の理性を疑えない、幼い人間がいた。私はその人間のくだらなさを一蹴すべきであった。そのくだらなさを愛する余地はなかったし、金輪際ないはずであるとも思う。でも、私はその幼い人間に愛着があって、その幼さをむきだしのまま捨てておくことができなかった。恥ずかしいことに、その幼さを守ってあげようとすら思っていた。

そこらへんの、ただ顔とファッションセンスの良い人間がよく短絡的な詩や歌詞にしそうな、この板挟みの中で、一丁前に私は苦しんでいた。論理的に得られる帰結を自分の脳が{--}的に拒否している姿に自分自身の限界を見出し、そこに向き合っても向き合いきれず、結局自分は普段自分が見下している存在と同じであると分かり、ではそこに負けたのかと悲しみ、所詮それまでの人間だと私と私を含めた人間全員を憐れんだ。しかし論理はいかんせん役に立ってくれない、ショートしてしまった。

論理は所詮論理への愛であって人への愛ではなく、金と女を前にして論理は逃げ去ると誰かが言っていた(太宰治『斜陽』)。でも金と女にも論理は存在する。公理が違うだけで、論理自体は存在する。本当に論理が逃げ去るのは、論理と感情を抱き合わせた時に感情を原理として組み合わせた時であると思う。論理と感情のせめぎ合いに目を背けた時に、人は論理をみすみすと逃したことになる。

感情と論理の間で、苦しみながら、時に人間を呪いながら、でも自分の論理と感情に正直に在ることで、そこに私という存在が初めて意味を成して存在できる。

苦しみとは結果ではなく、手段である。私が、あなたが、存在を許されるための。

 

割れ目とその感情について

何かを書こうとする。何かを書かないと何も残らないという焦りから、そして、何も残せないという確からしい現実に怯えながら、何かを書かないといけないとコピー用紙を取り出す。机に座る。だいぶ前に期限の切れた化粧水と意図的に積んだ本に囲まれた机に強引に平らな面を作り出して、紙を広げる。何も残したいことがなくて、仕方なく今日1日あったことを思い出す。

特になにもない1日だったと思う。朝起きて、用意された朝食を食べて、youtubeを横目に新聞を読み、人身事故で少し電車が遅れていて今日は1日晴れていることをニュースで知りながら、身支度をし、少しパソコンを触って家を出た。今日の12:00までに1分間の自己PR動画を提出しなくてはいけなかったから(そしてそこは有名企業なので)、大学に着いたらスーツに着替えてその原稿を作って動画を撮り、提出した。すぐに他の企業の面接があったからそれに出て、何回もしゃべっているので本当か嘘かも思い出せない話を語り、金沢にあるホテルの経営改善策を考え、一息ついた。PCをいじくって明日のゼミの発表に向けた資料を作っていたら夜になった。少し電話をして、気が利いたことなど言えずに電話を切った。そして今。

最近、パソコンと喉の調子が悪い。キーボードのOの反応が悪くて、押したと思ったら押せていなかったり、1回押したら2回押したことになっていたりする。少し前に半袖で寝てたら見事に体調を崩し、なおりかけで調子に乗ってタバコを1本だけ吸ったら、急に悪化してそっから1週間くらい治らない。大学1年生のときに、このパソコン(Macbook Air 2018)のキーボードがうんたらかんたら、みたいなのをみんな言っていて、それを4年越しに思い出す。一昨日くらいまでは夜中に咳が止まらず、寝る時まで咳をしているのでびっくりした。1つのパソコンを5年使うのって長いのかな、まぁ20万円なら1年で4万円、1ヶ月で3500円くらいかと考えながら、いつもよりもOを強く押している。がんばって粉のパブロンを飲んでいる。1日3回、食後30分以内、水がいいんだろうけどお茶で。

物語を書く才能というものがある。世界があって、自己があり、感情があって、物語を生み、文字に書き起こすことのできる人間がいる。表現すべき自己の思想があり、それを表現することを他者に認められていて、その自分自身の在り方を肯定している人間がいる。文字でなくとも、表現をする人はみんなそこに属する人である。産みの苦しみを馬鹿にすると怒ってきそうな人たちの集合と一致する。

人生(誰であれ)に流れをつけると、それはよくある物語の集合になる。それがユニークであれば、小説になり、自伝になり、ドラマになり、映画になり、つまり媒体に残される。自分は今、その物語の割れ目の中にいる。1つの物語が終わり、それは別の物語の途中かもしれないけれども、もがいて、泳ぎ、なんとか波を立てて物語に昇華させられることを願っている。繁華街を歩く。水面で干渉しあう無数の波が音を立ててぶつかっている。消えていく波もあるけれども、乱反射する水面は美しくて、安心する。泳ぐことが自然にできるときはそれはそれで良くて、いまみたいな割れ目にいる時に泳げる人間に憧れる。感情があれば、泳げると思う。

泳いでいかなくてはいけない。次の割れ目まで。

写真

カメラを買った。富士フィルムのX100V。元々フィルムカメラを持っていた。CONTAXARIA。最近シャッターが壊れた。

せっかくカメラがあるから、と、写真を撮る。うまくいかない。インスタとかを見る。真似して撮る。上手い写真' が撮れる。それをインスタに上げる。写真が上手くなった気になる。(以下繰り返し)

良い写真とは何か。

写真を構成する要素は、3次元では被写体と背景とカメラ、2次元では、光、色、奥行き、構図くらいだろう。それらの組み合わせに技術とセンスがある。

全員が同じような写真を撮る。私にしか撮れない、私にしか切り出せない世界はないのか。写真を世界の一部を切り取る行為の結果と定義する。私は、切り取られる世界と、その世界を切り取る行為の2つに参加できる。切り取るテクニックのない人は、写真を撮ることのどこに参加できるのか。「私がその時間にその場所にいた」ことに価値を見出すしかない。カメラにとっての存在する世界は私が決める他ない。どこにいつ連れていくかは私の判断に委ねられる。

では、その情報はどこに宿るのか。GPSか、データか、何がその過去を担保するのか。私の記憶しかないのか。写真に写ることができない私だけが、その写真の存在を信じ抜けるのか。

(続き、考え中)

所感

書かないといけないことがあると思う。

等身大の自分、があるとする。生まれてこの方摂取してきたコンテンツと生まれながらの感性をうまくブレンドさせた、オンリーワンで等身大な自分があるとする。20年と少しを生きて、等しく親の愛を受け、そこそこに権威に従い、両手で数えられるほどの人生の選択肢しかない人間に囲まれた人間関係に生きている。

そのとき、等身大な自分にこだわることに何の意味があるだろうか。少し自分を過信していたように思うし、みんな過信しているように思う。多少の誤差の中に収束してしまう人間に、そこから逃れるためには、狂ったインプットの中に自分の感覚を残す必要がある。そのためには、言葉では説明し尽くせないことを、言葉で残せるようにならないといけない。自分だけが自分の在り方を肯定できる。それは必ずしも解像度を上げることではない。事象の把握ではなく、適切な語彙の選択の方が大切なことの方が多い。言葉と写真で残す方法を模索するほかない。